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大石 達也(おおいし たつや、1988年10月10日 - )は、埼玉西武ライオンズに所属するプロ野球選手(投手)。福岡県太宰府市出身。 == 経歴 == === プロ入り前 === 小学2年から投手としてソフトボールを始め、中学時代にボーイズ・リーグのホークス大野城ボーイズに入り、本格的に野球を始める。投手と外野手を兼任していた3年時、吉川光夫(日本ハム)らと共に九州選抜に選ばれた。大野城ボーイズの監督から勧められ、監督の母校でもある福岡大大濠高に進学、1年春から左翼手のレギュラーとして活躍した。2年秋から主戦投手となり、福岡南部大会準々決勝でノーヒットノーラン(7回参考記録)を達成。3年時の福岡県大会初戦では好投したものの、サヨナラ押し出し死球を与え敗退〔。甲子園出場はならなかったものの、最速145km/hを誇る九州屈指の右腕として注目を集めた。 早稲田大学野球部監督の應武篤良が福岡大大濠の監督の後輩だったこともあり〔、早稲田大に進学。大石は投手を希望したが、日本一の遊撃手になれると考えた應武の方針でほとんど経験のない遊撃手も務める。入学前の内野の守備練習で指の裂傷や剥離骨折の怪我を負い、復帰後は投手として登録された〔。1年春に投手として初登板。1年秋から3年春の4シーズンにかけて38回2/3連続無失点を記録し、初めて規定投球回に達した3年秋のリーグ戦ではベストナインを受賞した。一方、先発としては高校時代から「試合のどこかで必ず捕まってしまう脆さがある」、「試合のあるところに差し掛かると、なぜか決まって崩れる」と言われ〔『野球小僧』2010年6月号、白夜書房、雑誌18801-6、58-61頁。〕〔『野球小僧』2010年10月号、白夜書房、雑誌18801-10、144-147頁。〕、1年秋の初先発では5回1安打無失点で初勝利を飾ったものの、2度目の3年春の登板では5回8安打4失点で連続無失点記録がストップ、3度目の秋の登板でも4回9安打6失点と結果を残せなかった〔。 先発願望はあったが、斎藤佑樹や福井優也が先発の柱となっていた3年頃からは、ストッパーとして2人の後をしっかり締めようという意識に変わっていったという〔。短いイニングで全力投球できるようになったことで球威が増し、3年春の立教大学戦では一場靖弘に並ぶ当時の神宮最速タイとなる154km/hを計測。11月のプロアマ戦では1回を投げて天谷宗一郎らから2三振を奪い、翌4月25日の明治大学戦では自己最速となる155km/hを計測。また同年夏の世界大学野球選手権大会準決勝でアメリカの中軸打者から3者連続三振を奪ったことで、速球ならメジャーリーグでも通用すると少し自信を持ったという〔。 2010年のドラフト会議では同じ早稲田大学の斎藤佑樹や福井優也、中央大学の澤村拓一らと共に「ハンカチ世代」として注目されていた。ドラフト会議当日は横浜・楽天・広島・オリックス・阪神・西武の6球団から1位指名を受け、抽選の結果西武が交渉権を獲得〔斎藤、日本ハムが交渉権 6球団競合の大石は西武 共同通信 2010年10月28日〕。同年12月2日に契約金1億円・出来高払い5000万円・年俸1500万円(金額は推定)で仮契約を結んだ。背番号は「15」。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「大石達也 (野球)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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